倫理学への招待

坪井 雅史


 今年4月から本学で倫理学などを担当することになりました坪井です。外国語学部基本科目部会の新任教員から学生のみなさんに向けた自己紹介を書くよう依頼されましたので、簡単に自己紹介をして、あとは私が専門にしている倫理学について少しばかり紹介をしたいと思います。

 まずは簡単な自己紹介から。生まれは九州大分県ですが、大学時代からここ横浜に来るまではずっと広島で暮らしていました。そのため、普段の授業ではあまり出ませんが、広島弁や変な関西弁、九州弁も混じった妙な言葉を使うことがあります。だからどこの言葉かと訊かれるのは困ります

 趣味と言えるようなものはありませんが、音楽を聴くのは好きです。いろんな曲を聴きますが、特に今はヨーロッパの古い楽器を使った音楽をよく聴いています。私は、高校時代からつい1年半ほど前までは、休み期間を入れながらも合唱を続けてきました。中でも最後の10年ほどはルネサンス時代のヨーロッパの曲ばかりを歌っていました。一般にはあまりなじみのない、バロック時代(バッハとか)よりもっと前の時代の音楽ですが、豊臣秀吉の頃の日本にも伝えられ演奏されたと言われています。静かな宗教曲ばかりではなく、楽しい世俗曲もあり、どれをとってもとても美しいハーモニーの曲ばかりです。(ちなみに、以前私がいた合唱のグループ「コール・アルス・アンティカ」の30周年および35周年記念コンサートのパンフレット用に書いた、この時代の音楽についての簡単な紹介文がありますのでよかったら見てみて下さい。) そうした関係で、この世界では有名なリュート奏者つのだたかしさんには、コンサートで共演させて頂いたり、彼らのグループ(タブラトゥーラなど)が広島を訪れる際の演奏会のお世話をしたりしていました。そこから彼らの音楽ばかりでなく、いろんな古い音楽を聴くようになったというわけです。横浜に来て、合唱をやることはなくなりましたが、もし機会があればまたやってみたいと思っています。

 ついでに、好きなことをもう一つ。だいたい毎日研究ばかりしていると運動不足になってしまいます。特に広島では車で通勤していた時期もありましたから、これではいけないと思い、数年前からバドミントンを始めました。広島では近所の小学校の体育館で地域の子どもから年輩の方までが集まって、毎週1回から2回、楽しくやっていました。バドミントンは横浜に来てからも続けていますが、私が見つけたグループはどこもレベルが高すぎてついて行くのが大変というのが現状で、ちょっと困っています(→神奈川区バドミントン協会)。初心者で集まって楽しくやるグループを作ろうとしていますので、関心のある方は声をかけて下さい。といっても、学生のみなさんの体力にはついて行けないでしょうね。

 さて、くだらない話しが長くなりました。そろそろ、倫理学の話しに移りましょう。倫理というと、みなさんの中には高校で受けた倫理の授業を思い浮かべる方もいるでしょう。私も昔高校で倫理を教えていたことがありますが、倫理学を専門にやっていれば、高校の授業でやる内容くらいはもちろん完璧に知っている、というわけには残念ながらいきません。高校の授業では、歴史上の有名な思想家や宗教(家)の考えについて学ぶことが多かったと思います。もちろん、倫理学者のなかには、プラトンやアリストテレスやカント、ヘーゲルの思想を専門に研究している人もたくさんいます。そして、大学の授業でも倫理「思想史」の授業であれば、そうした思想家の考えを詳しく学んでいくこともあります。そこではだいたい西洋倫理思想史とか日本倫理思想史とかいう形で細かく内容が分かれています。そして、宗教に関する内容のほとんどは、宗教学など別の授業で扱うことになるので、倫理の授業では取り上げられないこともたくさんあります。逆に高校では聞いたこともない思想家が出てきたりすることもしばしばです。

 こうした思想史の授業であれば、ほんのさわりではあれ高校でやったことのある人もいるでしょう。しかし、最近の倫理学の授業では、そうした思想史の授業だけではなく、現代の倫理的問題について取り扱う授業も増えてきました。その内容について書く前に、そもそも倫理学とはどういう学問なのかを簡単に紹介しておいた方がいいでしょう。

 倫理学は、存在論や認識論や美学、論理学と同様に、哲学の一つの領域とされています。英語で言えばethicsですが、moral philosophyと言われることもあります。これだと、道徳哲学と訳せますね。つまり倫理学とは、簡単に言えば道徳について哲学的に考える学問だと言えます。でも「哲学的に考える」って言われてもわかりにくいですね。「哲学的に考える」とは、批判的に考えること、言いかえれば「本当にそうなのか」「なぜそうなのか」というふうに道徳の根拠を問い直すことです。もちろん、そのように問うた結果、従来の道徳におかしな点があるとすれば、それをどう改めたらよいのかを考えるのも倫理学の仕事です。

 現代の倫理学では、後の方の仕事の割合が増してきています。というのも、現代の社会は、科学技術の発達などにともなう社会の大きな変化にともなって、従来の倫理を変更したり、新たな倫理を作り出していく必要に迫られているからです。そして倫理学において主にこうした仕事をする領域を応用倫理学と呼んでいます。そこには問題領域に応じて、生命倫理や環境倫理、情報倫理、フェミニスト倫理、あるいは企業倫理や工学倫理などといった分野が含まれます。

 応用倫理学とは、もともと従来の倫理学において考えられてきた倫理学の基本的原則を現実の社会問題に「応用する」仕事と考えられていたことからこうした名前が付いたのでしょう。しかし実際には、具体的な現実の問題に従来の原則を「応用」すれば問題に対する答えが見つかるということはほとんどありません。むしろ、現実の問題を詳細に検討するなかで、より新しい具体的な原則を見出し、従来の倫理学を見直すきっかけを与えており、決して単なる「応用」の学問ではないといえます。したがって、現在の倫理学は、一方で社会的問題の倫理学的分析と対応を行いつつ、他方でそれをふまえた倫理学理論の構築をめざすという二つの課題を負っていると言えるでしょう。

 ところで、近代の倫理学では、一般に何がよい(あるいは正しい)行為で、何が悪い(あるいは不正な)行為かを考え、その根拠として、「いつでも誰でもそれ自身正しいと認められる行為をすること」や、「最も多くの人に最も多くの幸せをもたらすよう行為すること」などといった普遍的な倫理原則を提示してきました。しかし応用倫理学は、こうした普遍的な原則ではうまく説明できない問題に気付かせてくれました。例えば人間だけを対象とする倫理の限界や、現在世代だけに通用する倫理の問題性を指摘したり、さらには原理・原則に訴えて、倫理的正しさはいつでもどこでも同じように通用しなければならないと考える倫理学の基本的発想そのものに対する疑問も提示してきました。

 私もこれまで、英米の倫理思想を研究すると共に、現代の科学技術にまつわる倫理問題に関心を持ってきました。特にここ数年は、仕事の関係で情報倫理の研究に携わってきました。また同時に医療倫理やフェミニスト倫理にもふれながら、私たちが日常的に倫理問題を考える方法に注目してきました。そして私たちが倫理的な思考を巡らす際には、数学の問題を解く時のように問題を抽象化し、そこに原理・原則を適用することによって「解決」しようとするのではなく、具体的な状況とその物語的な文脈に即した考え方の中で、他者とのコミュニケーションを通して問題を改編したり、あるいは「問題」とされていたものが問題でなくなるような状況を作り出すことによって、問題を「解消」しようとしていることに着目し、こうしたより身近な考え方を明らかにしようとしてきました。これからもこうした原理・原則に頼らない倫理的思考の内実をより詳しく研究していく予定です。

 来年度からは、専門ゼミも担当する予定ですが、そこでは現代の倫理に関する諸問題について取りあげていきたいと思っています。関心のある方はぜひ参加してみて下さい。

(2004年8月記)