PLUSi Vol.21
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だそうだ。「先生、これは惨めなことじゃありませんか」「いいや、どうだろう。君はそれを誰かに指摘されたわけじゃないんだろう」「ええ、誰も私にそんなことはしませんでした。むしろ私は、平凡であったがために、多くの人に愛されてきたのですから」彼の瞳の奥に、優しい思い出が鮮明に見えた気がしたのだ。しかしその一方で、豚になりたいという彼の願望の出処はますます霧の中に消えるようだった。すると、ヤン医師の心中を察したブラン氏は、目前の百面相に向かって言った。「誰でもない、私自身が、私を指摘するのですよ」恐れおののいているといった様子だった。両膝を静かに床につけ、ヤン医師に縋りつく彼の姿が、それを如実に物語っていた。 「お願いします、先生。もう心が痛くてどうしようもない」。そう言ってブラン氏はヤン医師の膝あたりに顔をこすりつけた。ヤン医師は彼のみすぼらしい姿に少し泣きそうになってから、空を仰いで、数分間の沈黙ののち、最後には静かに頷いた。よく見るようになった。ワイドショーの司会とにこやかに語り合う様子は異様だが、彼は心なしか嬉しそうだった。以前彼からかかってきた電話では、学校でも世間でも人気者になり、疲れるが楽ヤン医師は、彼の面差しにそれを確かに感じた。彼は、彼自身によって向けられる刃先の鋭さに半年後、ヤン医師はブラウン管越しに豚の人をしいといった内容が語られた。それ以降、彼との音信はしばらくの間途絶えていたが、それも人気者であるという証拠なのだろうとヤン医師は思っていた。「いやはや、アンドレ・ブランさん。テレビに出ずっぱりですから、収入も相当なものになったのでしょう。噂によれば、五千万円の豪邸を一括で購入したとか」「そうなんです。両親も喜んでくれまして」「ははぁ、その体になって、人生が良い方向へと一変しているのでしょう。他に何か素晴らしい出来事はありましたか」「実は、そうですね、ガールフレンドができました。最近はスケジュールの合間を縫ってよく会っています。私にはもったいないくらいの美人で。あぁ、あとは、ファンクラブができましたね。私に会いに、わざわざ遠方から足を運んでくれたり、手紙やプレゼントを贈ってくれたりするんです。この姿になってから、社会に認められた気がして……うん、嬉しいです。とてもね。もう昔には、戻れないかもしれません」「共感しますよ。持つことはとても喜ばしく、持たぬことはとても嘆かわしい。人生、持ってこそ、意味があるんです。特に、若いときの苦労は買ってでもしないと。大人になって、何も持たない人はそれができていなかった。磨かれなければ、ダイヤモンドも無価値ですから、そういう人はこの世にいてもらわなくて結構。そうは思いませんかな」そこで、ブラウン管は、クロロホルムで眠らされたかのようにすっかり寝息を立て始めた。ヤン医師は、リモコンをテーブルに置くと、窓辺に寄っていき、カーテンを束ねた。そして、窓際に佇む揺り椅子に腰掛け、秋雨の窓に打ち付ける音を耳にしながら、外で濡れる木々を眺め、今はもう過ぎ去った日々のことを考えていた。医者である自分と、その家族と過ごした日々。貧民たちへと差し伸べた手のひら、尊敬のまなざし、感謝の言葉、笑顔、抱擁、愛情。そして、胸の痛み。実はここのところ、ヤン医師を襲う胸の痛みは再び頻度が増した。「時々」に収まっていたのが、「常に」になった。この事態の原因に、ヤン医師は思い当たる節があった。それは、多数寄せられる取材やテレビ出演の依頼、加えて診療の問い合わせであった。なにもかも、例の豚からの恩恵だった。ヤン医師は人見知りであることを口実に前者は断ったが、後者については困っている人々の手前、断ることができなかった。休診日に関係なく毎日ヤン医師を訪れる人、人、人。それも、金持ちばかりが権威や立場を振りかざし、そうでない人々を押しのけ、体調不良ではなくブラン氏を手本とした体の改造を訴えてくるのだった。そうしてヤン医師宅を出る頃には彼らは豚になって、各々の家族に帰宅を告げた。ヤン医師は、その一連の流れを見届けることがとてもつらかった。彼らに対して悪しき猿の手が手招きをしているのだが、自分こそが闇に隠れてその手を動かしている黒幕のように思えてならなかったのだ。そ118第3部 小説・エッセイ     

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