PLUSi Vol.21
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 「巌流と申したか。それは小次郎の号ではないのか。なぜ同じ名なのか。」嗄れ声で、老人は説明した。 「あいつはわしの数少ない弟子のひとりで、号を継がせていた。岩流という号と共に、流派も継いでいってもらいたいと考えておった。わしは陰で小次郎を支え、小次郎が小倉藩の剣術師範として迎えられることになった際も、わしが助言してやるからなれ、そう言っておった。ただ、岩流の顔になるのだから、お前が岩流を名乗り、わしの存在は隠せ。そうすることで、小倉藩でのわしらの地位を維持できる。そう考えた。」老人の話を聞いていた武蔵は、そっと刀を構えるのをやめた。その様子を見て、老人は少し微笑んだ。二人のほか誰もいない、海上での静寂が、武蔵の闘争心を沈めた。老人は言った。 「ほうほう。刀がなくても語り合えるか。腕っぷしのいい荒くれ者だと思っておったが、礼儀の分かる小僧じゃ。」老人の眼光は緩み、緊張感は和らいだ。老人も刀を下ろす。老人は続ける。 「ある日、小次郎のもとに小倉藩の細川家の誰かから、宮本武蔵との決闘を提案された。わしは反対した。あんたは腕の立つ剣豪として名をはせていた。小次郎はわしの弟子とはいえ、まだその境地には達していないと判断した。それに、あれは小次郎をよく思わない勢力による小次郎つぶしであったと考えておる。決闘に乗じて小次郎を殺し、厄介者を排除しようと企てたものにしか見えなかった。しかし、小次郎にそれを伝え、いくら説得しても聞く耳を持たなかった。小次郎なりの判断だ。わしには止める権利はない。」「なぜ決闘の時止めに入らなかった。いくらでも止めることはできたはずだ。」とは言えなかった。武蔵は、そこで罪を知った。武蔵は弟子にそそのかされ、名誉のためにと小次郎を倒した。武蔵にとっては今回もただの決闘。しかしそれは、小倉藩のはかりごとに利用されただけだと知った。 「岩流殿、小次郎は死んでいません。私は太刀の手ごたえで相手の安否がわかります。小次郎には木刀を振りましたが、急所は避けております。」罪から逃れたく、そう言った。 「残念だがな、こんな絶好の機会を細川は見逃さない。お前の弟子か何かに罪を擦り付け、殺害するに違いない。小次郎には妻子もいて心配じゃ。どこか匿う場所を見つけなくては。もちろん、お前も例外ではない。小倉藩には歯向かってこられないように、弟子が約束を破り、小次郎を卑怯に殺したことを小次郎の弟子に伝え、殺害を図るつもりじゃ。」武蔵は細川家の誰かもわからない相手に恐怖を覚えた。こんな鬼畜の所業をさせておいて、それが誰かもわからない。しかも、その鬼畜の所業に自分自身が加担していると思うと、とてつもない嫌悪を感じた。 「武蔵、お前がこうなることはわかっていた。小次郎の弟子に直接誤解を解きたいが、わしは顔を知らない。今残ったわしの弟子は小次郎のみだからな。それにもうわしは年寄で戦えない。だから、この先の門司城の沼田延元という男に話をつけておいた。そこでしばらく匿ってもらえ。」そういうと老人は何も言わず、舟を漕ぎ始めた。武蔵は何も言えなかった。門司に着くと、老人は話し始めた。人影の少ない深夜の港である。「武蔵、五輪は知っているか。」武蔵は答えた。「知っています。」「お前がこの先、生き残るには剣を捨てろ。戦場を捨てろ。本当の強者は戦場にはいない。空を極めろ。空の世界での武器は筆だ。空において重要なのは、剣術に同じ。何を描くかでも、何で描くかでもない。どう描くかだ。門司城へ迎え、武蔵。」そう言い残し、去っていった。門司城の途中で、武蔵は百舌鳥を見かけた。容姿の可愛らしさに反して、獰猛な鳥である。一本の長い枝に止まった。その下には、一匹の芋虫が速贄にしてある。百舌鳥は枝を道具のようにして使い、芋虫を貫く。狩りをする百舌鳥の眼光は鋭く、闘志を垣間見えた。     生き物は生きるために誰しも武器を持っている。しかし、人間は持っていない。持っていないからこそ、どう生きるかが問われているのかもしれない。武器は空である。空っぽというわけではない。虚しいものではない。重要なのは、空であることを分かったうえで、実の道を創造していくことである。115第3部 小説・エッセイ

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