まう。「二頭のシャチは、地元住民から『右舷【スターボード】』『左舷【ポート】』と呼ばれています。それぞれ、背びれが右と左に曲がっているという特徴があるからです」「まるでコミックのキャラクターだ」「ええ、まさしく。現実の存在とは思えません」アーノルド氏は、掌をバチンと額に押し付ける。「通常、シャチと言うのは五から三〇頭の群れを形成します。あれほど少数で、そしてあれほどスマートに獲物を捕らえるシャチなんて、他に聞いたことが無い」「クールな奴らですね……おっと、失礼」どうかと思ったのだ。「構いませんよ。とにかく彼ら、右舷と左舷のせいで、この海岸に─サメたちの楽園だったこの海のサメは数が激減しています。まだ襲われていないサメも、彼らを恐れてここには寄り付かなくなっている。たった二頭の、殺し屋のおかげで、この海は大変なことになっている」「大変? なんですか?」狂暴なサメが人間を襲う映画を。アーノルド氏の言うように、あれは映画の誇張表現なのだろうが、それでも実際のサメも危険なことに変わりはないだろう。そのサメが減ることで、それほど困るとは思えなかった。サメの研究者の前で、サメの天敵を褒めるのはサメがいなくなったら、それほど問題私は、有名なハリウッド映画を思い出していた。 鮫 「ええ、大問題ですよ」アーノルド氏は頷く。「生態系は、バランスが重要なんです。たとえば、ホホジロザメがいなければ、その獲物であるミナミアフリカオットセイの行動が制限されず、絶滅の危機に瀕しているケープペンギンを捕食する機会が増えてしまう、とかね。ある一種の生物に変化が生じることで、広範な生態系に影響を及ぼす恐れがあります」「なるほどね─ありがとう、勉強になりましたよ」「大変な事態が起こっているのは間違いないが─」「え?」「この海は、綺麗でしょう? 好きだ。すべての生物が幸せに暮らせる海を、私は願っているんです」その眼差しは真剣だった。口先だけの言葉じゃない。彼は、サメを─そしてこの海を愛しているんだろう。それが、ひしひしと感じられた。私は、アーノルド氏と、堅い握手を交わす。その後、アーノルド氏は仕事があると帰って行った。一人になった私はしばらく、港から海を眺めていた。ああ、なるほど。彼の言う通り実に綺麗な海だった。それにしても。 ─凄腕の、殺し屋コンビ『右舷』に『左舷』か。彼らの存在は、サメにとっては堪ったものではないのだろう。それは分かる。生態系を壊しかね私は、この海岸がない異常個体であることも。だが、どうしても、私はこう考えてしまう。なんて─「なんて、格好いいんだろう」なんて、惨めなんだろう。今の俺は。俺は、遠く離れた岩陰に隠れて、その様子を観察していた。それしか、出来る事が無かった。黒光りする二頭の化物が─『奴ら』が、同胞を襲っている。その決定的な瞬間に、俺は出くわしてしまった。同胞は、必死に抵抗しようとしている。だが、無理だ。『奴ら』とは体格差が大き過ぎる。パワーも桁違い。同胞を中心に二頭はぐるぐると周回し、取り囲んで逃がさない。 ─助けに行きたい。同胞がむざむざやられるところを見たくない。でも、情けないことにヒレが竦んで動けない。くそ。なんて、惨めなんだ。やがて、ヒレが左に曲がっている方が、同胞に勢いよく体当たりする。あれだけで、俺たちの脆い身体は耐えられない。動けなくなったところを、右曲がりの方が腹に噛みつく。そしてあっけなく、腹の肉は右曲がりによって引き千切られ、その中身をすぐに貪られてしまう。ああ……。ああ、畜生。100第3部 小説・エッセイ
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